大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれた三吉は、生後まもなく父の故郷広島市に転居した。
三吉が26歳のとき、広島市南区翠町に移るまで過ごした。
[MAP] 峠三吉住居跡
現在はマンション、商業ビルなどが並ぶ
碑には次の詩が刻まれている。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
峠 三吉
三吉の詩集『原爆詩集』(昭和26年刊)の「序」としてかかれた詩であり、 核兵器廃絶運動の象徴ともなっている。
三吉の死から10年後、1963(昭和38)年8月6日に、平和のための広島県文化会議、峠三吉詩碑建設委員会が建設した。詩碑の裏側には英訳も刻まれている。
碑文表は三宅一子書。裏は大原三八雄による英訳、書。
[MAP] 峠三吉詩碑
峠三吉詩碑文面
詩碑の裏面
1948・49(昭和23・24)年に建設された 広島市で初めての鉄筋コンクリート造の市営住宅。
このアパートには、三吉も入居し(昭和25~28年)、 部屋の窓から京橋川を眺めてうたったと思われる詩「河のある風景」を残している。
平和アパート敷地内の碑には「河のある風景」
(『原爆詩集』所収)の第一節のみが刻まれている。
河のある風景
すでに落日は都市に冷い
都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそまる
夕昏れる住居の稀薄のなかに
時を喪った秋天のかけらを崩して
河流は 背中をそそけだてる
平和アパート
平和アパート敷地内の碑
碑の文面
戦時中、陸軍関係で使用される被服一式を製造した施設。
爆心地から約2.7km離れているが、爆風の爪跡が今も残っている。
被爆直後、倒壊をまぬがれたこのレンガの建物は救護所として、多くの被爆者が避難した。
『原爆詩集』の中の詩「倉庫の記録」には、被爆後の被服支廠の様子が描き出されている。
[MAP] 被服支廠跡
被服支廠とその鉄扉
日本陸軍将校の親睦組織であった偕行社が有する済美学校は、 軍人や上流階級のための学校であった。
1945(昭和20)年8月6日、 登校していた生徒全員が被爆死したとされる。
1970(昭和45)年、校舎跡に記念碑が建てられた。
慰霊碑は男女の児童像。
その背面の壁に三吉の詩「墓標」(『原爆詩集』所収)が刻まれている。
[MAP] 済美学校の碑
済美学校の碑の児童の彫像
児童像の背面には三吉の詩「墓標」が全文刻まれている
三吉が眠る。浄土真宗本願寺派神﨑山浄花院西応寺は峠家の菩提寺。
大正時代に建てられた峠家の墓石は原爆で被爆しており、ひび割れの痕が残る。
三吉は1953(昭和28)年3月10日、36歳で生涯を閉じた。
[MAP] 峠三吉墓所
峠家墓石。被爆によるひび割れが見える。
西応寺