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“ちちをかえせ ははをかえせ”の「序」で知られるこの詩集は、生前唯一の個人詩集である。当初、四国五郎の表紙絵にと孔版刷により500部が自費出版され、広島や峠が広島支部長を務めた新日本文学会の文学関係者に配られた。当館峠三吉資料の壷井繁治から峠宛の葉書((昭和26年)7月24日付)からは、東京での出版するため奔走したものの、8月6日の発行に間に合わせるためガリ版刷りになった経緯が読み取れる。 その後「河のある風景」「希い」「その日はいつか」など5篇が加えられ、青木文庫として発行された。被爆の惨状を直視した「八月六日」や「仮繃帯所にて」、死者や深い悲しみとともに生きる人々に呼びかける「墓標」「としとったお母さん」、朝鮮戦争やこれに同調する動きへの怒りを込めた「一九五〇年の八月六日」など、峠三吉の戦争や原爆に対する激しい抗議と平和への決意が凝縮され詩作品としての到達点まで高められていると評価されている。 「あとがき」は、「又私はいっておきたい。こうした私に対する圧迫を推進しつつある人々は全く人間そのものに敵対する行動をとっているものだということを。この詩集はすべての人間を愛する人たちへの贈り物であると共に、そうした人々への警告の書でもある。」と結ばれている。 『原爆詩集』峠三吉著での検索結果
峠三吉や山代巴を中心とする「原爆の詩編纂委員会」(昭和27年5月結成)が編集した。ひと月ほどの間に学校や職域を通じて1,389篇の原爆の詩を集め、そのうち124篇が掲載されている。 これに先行して長田新編集の原爆体験記『原爆の子−広島の少年少女のうったえ』(岩波書店 昭和26年)が大きな反響を呼んでいたが、『原爆の子』が子どもたちの作品を収録したのに対し、『原子雲の下より』は子どもを主体としながら大人も募集対象としており、この後広島では『歌集広島』(昭和29年)、『句集広島』(昭和30年)など、市民から作品募集したアンソロジーの発行が続いた。 昭和61年11月、峠三吉の甥である三戸頼雄氏宅から『原子雲の下より』の掲載原稿ほぼ全てと未収録作品の一部約430篇が発見され、その一部が「暮らしの手帖」15号(昭和63年8・9月号)に掲載された後、『行李の中から出てきた原爆の詩』(広島文学資料保全の会/編 暮らしの手帖社 平成2年)として刊行された。 『原子雲の下より』峠三吉著での検索結果
峠三吉が代表を務めた「われらの詩の会」は昭和24年10月に結成され、翌11月に「われらの詩」創刊号を300部発行した。反戦反原爆を掲げ、特に朝鮮戦争に対する反戦詩を多く発表して抗議の姿勢を表した。号を重ねるごとに発行部数をのばし、県内に広がる地域支部を組織するなど、広島の文化、平和運動を牽引する存在となった。 事務所となった峠の自宅で主要メンバーによる編集作業が行われ、会員の訪問など来客客が絶えなかったという。峠三吉の死により、昭和28年11月の20号をもって終刊となる。 『われらの詩の会』の検索結果
この他、峠三吉は多くの同人誌、サークル誌の編集に携わり、リーダー的存在として活躍した。 「探求」広島青年文化連盟 昭和21年4月創刊 「ひろしま」瀬戸内海文庫 昭和23年6月創刊 「地核」広島詩人協会 昭和23年6月創刊 「広島文学サークル」広島地方文学サークル協議会 昭和24年2月創刊 「反戦詩歌集」反戦詩歌集団準備会 第1集(昭和25年5月)、第2集(昭和25年8月) 印刷に使用された題字、表紙画の版木
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