(満年齢) | ※青字は、主な出来事 | |
大正6年(1917) | 2月19日 父嘉一、母ステの第5子(三男)として、大阪府豊能郡(現 豊中市)に生まれる。母は「さんきち」は感じが軽い、と「みつよし」と呼んだ。 広島に移り、大手町に住む。 |
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大正12年(1923) | 6歳 | 広島市大手町尋常高等小学校入学。 関東大震災 |
大正14年(1925) | 8歳 | この頃より文学を好む。三年の時のちの作家若杉慧が担任となる。 |
昭和2年(1927) | 10歳 | 母が亡くなる。 |
昭和5年(1930) | 13歳 | 広島県立広島商業学校(現 広島県立広島商業高等学校)入学。この頃より、詩や俳句を作り始める。 広島県立広島商業学校時代の峠 昭和6年 満州事変 |
昭和10年(1935) | 18歳 | 広島県立広島商業学校卒業。広島ガスに入社するが、肺結核と診断され、療養生活を送る。 |
昭和11年 (1936) | 19歳 | 病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿する。次兄匡亡くなる。 二・二六事件 |
昭和12年 (1937) | 20歳 | 「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事する。 日中戦争始まる |
昭和13年 (1938) | 21歳 | 「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の灯の濤について月をみず」の句が入選する。 |
昭和16年 (1941) | 24歳 | 左部赤城子が急死、以後、短歌、童話に情熱を傾ける。短歌は「言霊」主宰の岡本明に師事する。 太平洋戦争始まる |
昭和17年 (1942) | 25歳 | 長姉嘉子の影響もあり、キリスト教の洗礼を受ける。このころ、大阪製図学校より通信授業を受ける。 |
昭和18年 (1943) | 26歳 | 病気は一進一退、仕事をしては発熱、喀血する状態を繰り返す。長姉嘉子の嫁いだ三戸家が翠町に移り、父とともに同居する。「編隊機大落暉より帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受ける。 |
昭和19年(1944) | 27歳 | 次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移る。 |
昭和20年(1945) | 28歳 | 4月横浜空襲で「城南航器」が全焼、6月に翠町の三戸家に同居。 8月6日三戸家にて被爆(爆心より約3km)し、ガラスの破片で負傷する。 捜索と救助のため市内を歩き、原爆症のため糸崎の日赤療院に入院。9月退院。10月広島にて友人と露店の花屋「みどり洋花店」をはじめる。 この年童話「百足競争」などを書く。 ポツダム宣言受諾・終戦 |
昭和21年(1946) | 29歳 | 広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加。広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、7月同連盟委員長に就任。8月貸本屋「白楊書房」を開店(翌年3月まで)。この頃、原田和子(のちの妻)と出会う。この年童話「虹」、小説「遠雷」を書く。 日本国憲法公布 |
昭和22年(1947) | 30歳 | 二・一ゼネスト支持倒閣国民大会への在広文化団体の結集に尽力する。2月広島県庁社会課に就職、憲法普及運動にたずさわる。7月児童雑誌「銀の鈴」から童話「百足競争」の原稿料を受け取る。童話「ドッジボール」、小説「鏡占い」などを書く。12月原田和子と結婚。 妻 和子と峠三吉 |
昭和23年(1948) | 31歳 | 1月「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となる。県庁退職後、瀬戸内海 文庫に入り、雑誌「ひろしま」編集長となる(8月退社)。広島詩人協会の結成に参加、「地核」(6月創刊) の編集を担当。11月国立広島療養所へ入院、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明。 |
昭和24年(1949) | 32歳 | 2月新日本文学会に入る。広島県庁施設農協連に就職(6月退職)。4月喀血、病床の中、日本共産党に入党。日本製鋼所広島工場の首切り反対闘争に参加し、「怒りのうた」、「共闘の誓い」を発表する。広島地方文学サークル協議会の中心的存在として活動、10月「われらの詩の会」を結成し、代表となる。 中華人民共和国成立 |
昭和25年(1950) | 33歳 | 1月新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推される。深川宗俊とともに「反戦詩歌人集団」を結成し、『反戦詩歌集』第1集(5月)・第2集(8月)を発行する。丸木位里、赤松俊子作「原爆の図」三部作展を開く。8月6日、非合法下の八・六平和大会に参加する。父嘉一亡くなる。12月国立広島療養所へ入院、所内の小説、詩のグループを指導する。 丸木位里と峠三吉 朝鮮戦争起こる |
昭和26年(1951) | 34歳 | 8月作品をまとめ、孔版印刷『原爆詩集』(500部)を発行。ベルリン世界青年学生平和祭参加作品として送る。11月上京、『原爆詩集』合評会へ出席する。 |
昭和27年(1952) | 35歳 | 3月新日本文学全国大会出席のため上京中、列車内で喀血。静岡日赤病院に入院。6月『原爆詩集』(青木文庫)出版。原爆の詩編纂委員会を結成し、『原子雲の下より』を出版。9月映画「ひろしま」の現地協力委員になる。「原爆被害者の会」結成に奔走、基金募集のため活動する。11月広島で開かれた「世界連邦アジア会議」に土居(栗原)貞子とともにメッセージを持ちこみ、大会宣言で採択させる。12月『日本ヒューマニズム詩集』第1集の読者投票で詩「墓標」が第1位となる。 |
昭和28年(1953) | 36歳 | 2月創作活動・社会活動に耐えうる健康な身体を確実にするための手術を決意。 国立広島療養所に入院。肺葉切除手術途中、3月10日未明死亡。 峠三吉 |