学生時代の畑耕一
大阪で高商の予科を済ませた畑は、名古屋の第八高等学校第二部(工科)に入ったが、東京の第一高等学校第一部(文科)に転じ、東京帝国大学英文科を卒業すると、すぐ東京日日新聞社に勤務している。
入社時期に関しては、大正7(1918)年9月13日付「読売新聞」に畑耕一の入社記事が載っており、大学卒業後すぐの就職であれば、彼は32歳で東大を卒業し、就職したことになる。大学卒業が非常に遅いが。大阪の高商予科を卒業し東大英文科に入学するまでの一時期、彼は故郷広島に戻っていたのだ。
じっさい『中国新聞六十五年史』(昭和31年)によると、明治40(1907)年頃、「中国新聞」紙上の中国文壇への投稿者のうち、常連によって詞友会が結成されたが、この幹事として畑逸(耕一)が参加しているのだ。同書に掲載された、明治40年8月28日開催の第三回中国文壇詞友会の参加者の集合写真にも写っている。
さらに、明治45(1912)年に、同じく中国文壇から芝居好きの同志によって作られた天下泰平十一日会へも、畑は名を連ねているが、これから間もなく、翌大正2(1922)年には、「三田文学」2月号に「怪談」を発表して文壇デビューを果たしており、活動の場を東京へと移した。小児期に味わった神経症的な恐怖感は、文学に結実したのだ。
「三田文学」大正2年2月号 (畑耕一/著「怪談」掲載) 表紙・本文
この処女作は、多くのアンソロジーに収録されている名作であり、その後の畑は「三田文学」、「早稲田文学」、「帝国文学」などへ作品を発表した。「読売新聞」が畑の東京日日新聞社への入社を報じたほどの存在感を、すでに文壇に築いていたのである。普通であれば東大生でも、一人の大学生の就職を記事にすることはなかったであろう。