原民喜は妻の貞恵をはじめ、多くの人々によって支えられ作品を遺しています。ここでは、その交友関係の一部をご紹介します。
民喜の妻 貞恵
昭和3年、広島県立尾道高等女学校卒業。
昭和8年、原民喜と見合い結婚。極端に寡黙で、人との交わりを得意としなかった民喜は、明るく利発で、自分の才能を信じてくれるこの妻の存在により、落ち着いた至福の時間を過ごすこととなる。
民喜の義弟 佐々木基一
民喜の妻 貞恵の弟。
中学時代から文学に親しんだが、姉と民喜の結婚が「作家」の存在を一層身近にさせた。東京大学在学中より、マルクス主義文学の研究会を続け、治安維持法違反で検挙される。卒業後は文部省入省したが、その後日伊協会に勤務する。「現代文学」「構想」同人。昭和21年1月、荒正人、本多秋五、平野謙らとともに「近代文学」を創刊する。花田清輝らと「総合文化」「現代芸術」創刊。文芸評論集『個性復興』『昭和文学論』や『昭和文学史』(共著)『現代日本文学辞典』(共編)がある。ほかに翻訳や映画評論の分野でも活躍。平成2年、『私のチェーホフ』で野間文芸賞受賞。
大阪生まれ。広島で育つ。早大仏文科中退。
原民喜とは広島高等師範学校附属中学校で出会い、熊平武二とともに同人誌「少年詩人」の同人となる。また、民喜や山本健吉らと同人誌「春鶯囀」発行。その後、左翼労働運動、プロレタリア詩運動に参加する。雑誌社に勤務し、詩劇「昨日今日明日」や、喜劇「陽気な土曜日」などの作品を発表する一方で、戯曲批評なども執筆。また記録映画の脚本、制作に従事した。戦後の一時期を北海道で過ごし、「近代文学」「三田文学」その他に詩を発表。歴程同人。
民喜とは生涯にわたる交友が続き、中央図書館には民喜に宛てた150通を超える書簡が残されている。
山本健吉(本名 石橋貞吉)
文芸評論家 明治40(1907)年〜昭和63(1988)年
文芸評論家 明治40(1907)年〜昭和63(1988)年
長崎生まれ。長崎県立長崎中学を経て、慶大文科予科に入学し、折口信夫に師事する。またこの頃、原民喜、田中千禾夫、滝口修造らを知る。原民喜、熊平武二、長光太らと同人誌「春鶯囀」、回覧雑誌「四五人会雑誌」を出す。大学卒業後は改造社に入社。以後出版社、新聞社に勤めながら評論活動を行ない、戦後は著述に専念する。古典から現代まで幅広く文学を論じ、また俳句への造詣も深く、『古典と現代文学』、『芭蕉』、『柿本人麻呂』などを著した。日本文芸家協会会長を務める。昭和58年、文化勲章受章。
昭和9年、向かいに住んでいた民喜夫妻らと同時に特高警察により逮捕され、この事件の際、民喜と絶交となるが、戦後遠藤周作の計らいにより和解した。
熊平武二
詩人 明治39(1906)年〜昭和35(1960)年
詩人 明治39(1906)年〜昭和35(1960)年
原民喜(左)と熊平武二(右)
遠藤周作
小説家 大正12(1923)年〜平成8(1996)年
小説家 大正12(1923)年〜平成8(1996)年
原民喜(下)と遠藤周作(上)
原民喜(左)と遠藤周作(右)
大久保房男
編集者 大正10(1921)年〜
編集者 大正10(1921)年〜
三重県生まれ。慶應大学国文科卒。昭和21年講談社に入社、「群像」編集者として「三田文学」の版元であった能楽書林を訪れるうちに原民喜を知り、以後「魔のひととき」など民喜の作品を「群像」誌上で発表、遠藤周作とともに親交を深めた。昭和30年から41年にわたり同誌編集長を務め、純文学誌としての充実を計り、「文学の鬼」とも呼ばれた。著書には『文士と文壇』『終戦後文壇見聞録』など編集者の視点で「文士」の生き方を記したほか、小説『海のまつりごと』などがある。
丸岡明
小説家 明治40(1907)年〜昭和43(1968)年
小説家 明治40(1907)年〜昭和43(1968)年
東京都生まれ。慶応義塾大学在学中の昭和5年「三田文学」掲載の小説「マダム・マルタンの涙」が注目され、横光利一らの評価を得る。堀辰雄に師事。モダンな文体と新しい心理描写で「生きものの記録」など発表。作家としての執筆活動とともに実家の能楽書林を継ぎ、一時は自宅を発行元として「三田文学」編集にも携わった。昭和26年原民喜を題材にした「贋キリスト」を発表する。
能楽書林は、昭和23年からの2年間民喜が下宿しており、『夏の花』を発行するなど、民喜の執筆活動を支え、友人たちとの交流の場となった。
梶山季之
小説家 昭和5(1930)年〜昭和50(1975)年
小説家 昭和5(1930)年〜昭和50(1975)年
民喜の碑を見つめる梶山季之
広島高等師範学校在学中から同人雑誌「天邪鬼」(1950年創刊)を主宰する一方、広島ペンクラブ事務局として原民喜詩碑(碑設計、谷口吉郎。詩碑の記、佐藤春夫。現在は、原爆ドームそばに再建されている)の建立などに奔走した。