※太字は主な発表作品。緑字は主な出来事
明治38年 (1905年) |
0歳 | 11月15日 父信吉、母ムメの間に五女七男(長男・次男は早世)の五男として広島市幟町(現 中区幟町)で生まれる。生家は、陸海軍・官庁御用達の縫製業を営む。 日露講和条約(ポーツマス条約)調印 |
明治45年 (1912年) |
7歳 | 広島県師範学校附属小学校(現 広島大学附属東雲小学校)に入学。 |
大正元年 | 中華民国の成立 |
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大正6年 (1917年) |
12歳 | 父信吉死去。享年51歳。 次兄守夫と原稿綴じの同人誌「ポギー」を作る。 |
大正7年 (1918年) |
13歳 | 広島高等師範学校附属中学校(現 広島大学附属中学校)の受験に失敗、 広島県師範学校付属小学校の高等科に進む。 慕っていた姉ツル死去。享年21歳。 |
大正 8年 (1919年) |
14歳 | 広島高等師範学校附属中学校に入学。 |
大正12年 (1923年) |
18歳 | 広島高等師範学校附属中学校4年を修了。大学予科の受験資格が与えられたた め、5年に進級後はほとんど登校しなかった。 同人誌「少年詩人」に参加、詩作を始める。同人に熊平武二、末田信夫(長光 太)、銭村五郎らがいた。 ゴーゴリ、チェーホフ、ドストエフスキーやヴェルレーヌ、宇野浩二、室生犀 星など文学に親しむ。 関東大震災・ソビエト連邦の成立 |
大正13年 (1924年) |
19歳 | 慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃、熊平武二の影響から句作をはじめる。 |
大正14年 (1925年) |
20歳 | 「糸川旅夫」のペンネームで「芸備日日新聞」にダダ風の詩を発表する。 |
大正15年 昭和元年 (1926年) |
21歳 | 同人誌「春鶯囀」創刊。熊平清一、熊平武二、山本健吉らが参加した。 また、熊平武二、銭村五郎、長光太らと原稿綴じの同人誌「四五人会雑誌」 を創刊する。次兄守夫と原稿綴じの同人誌「沈丁花」「霹靂」を作る。 マルクス主義文献を通じ左翼運動にも関心を持つ。 |
昭和4年 (1929年) |
24歳 | 慶應義塾大学文学部英文科に入学。主任教授は西脇順三郎。 在学中は日本赤色救援会など左翼運動に一時参加、酒やダンスにも傾倒した。 世界大恐慌 |
昭和7年 (1932年) |
27歳 | 慶應義塾大学卒業。卒業論文は、「Wordsworth論」。 身請けした女性と同居するが、逃げられカルモチン自殺を図る。 満州事変 |
昭和8年 (1933年) |
28歳 | 永井貞恵(文芸評論家 佐々木基一の姉)と見合い結婚。 淀橋区(現 新宿区)柏木町の山本健吉宅の向かいに転居。 同人誌「ヘリコーン」に参加。 |
昭和9年 (1934年) |
29歳 | 不規則な生活を不審に思われ、妻とともに特高警察に検挙されるが、一晩で釈 放される。千葉市登戸町(現 千葉市中央区登戸)に転居。 |
昭和10年 (1935年) |
30歳 | 短篇集『焔』(白水社)を自費出版。句誌「草茎」へ俳句を発表。俳号「杞憂」。 |
昭和11年 (1936年) |
31歳 | 母ムメ死去。享年62歳。 この年より「三田文学」を中心に雑誌への作品発表が続く。 「狼狽」「貂」「行列」 ニ・ニ六事件 |
昭和12年 (1937年) |
32歳 | 「幻燈」「鳳仙花」 |
昭和13年 (1938年) |
33歳 | 「不思議」「玻璃」「迷路」「暗室」「招魂祭」「自由画」「魔女」「夢の器」 |
昭和14年 (1939年) |
34歳 | 妻貞恵、結核を発病。 「曠野」「華燭」「沈丁花」 第二次世界大戦起こる |
昭和15年 (1940年) |
35歳 | 「小地獄」「青写真」「眩暈」「冬草」 |
昭和16年 (1941年) |
36歳 | 「雲雀病院」「夢時計」 |
昭和17年 (1942年) |
37歳 | 船橋市立船橋中学校の嘱託英語講師となる。 「面影」「淡章」「独白」 |
昭和18年 (1943年) |
38歳 | 「望郷」 |
昭和19年 (1944年) |
39歳 | 船橋市立船橋中学校退職。 夏ごろより、朝日映画社脚本課嘱託となる。 9月28日、妻貞恵、死去。享年33歳。 リルケの「マルテの手記」を読み強い感銘を受ける。 「弟へ」「手紙」 |
昭和20年 (1945年) |
40歳 | 広島市幟町に住む長兄信嗣宅へ疎開、家業を手伝う。 8月6日、長兄宅で被爆。8日より、次兄守夫の家族とともに広島市郊外の八幡村(現 広島市佐伯区)に移る。 原爆被災時の手帳をもとに小説「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆、佐々木 基一宛に原稿を送る。 ポツダム宣言受諾・終戦 |
昭和21年 (1946年) |
41歳 | 上京、大森区馬込東(現 大田区南馬込)の長光太宅に寄寓する。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託英語講師となる。 「三田文学」の編集に携わる。 「忘れがたみ」「雑音帳」「小さな庭」「冬日記」「ある時刻」「猿」 |
昭和22年 (1947年) |
42歳 | 長光太宅を出て中野の甥の下宿など居所を移す。 「夏の花」を「三田文学」6月号に発表。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託を退職。創作に専念する。 「吾亦紅」「秋日記」「廃墟から」「雲の裂け目」「氷花」 |
昭和23年 (1948年) |
43歳 | 神田神保町の能楽書林(丸岡明の自宅であり、当時の三田文学発行所)の一室 へ下宿する。「近代文学」の同人となる。 「夏の花」で第1回水上瀧太郎賞を受賞。 「愛について」「戦争について」「火の踵」「災厄の日」 |
昭和24年 (1949年) |
44歳 | 能楽書林より、小説集『夏の花』を出版する。「三田文学」の編集を辞める。 「壊滅の序曲」「魔のひととき」「死と愛と孤独」「火の唇」「鎮魂歌」 中華人民共和国成立 |
昭和25年 (1950年) |
45歳 | 武蔵野市吉祥寺(現 吉祥寺南町)に転居する。 日本ペンクラブ広島の会主催の平和講演会へ参加するため帰郷。 「美しき死の岸に」「讃歌」「原爆小景」「火の子供」 朝鮮戦争起こる |
昭和26年 (1951年) |
45歳 | 3月13日、中央線の吉祥寺・西荻窪間にて鉄道自殺。享年45歳。 3月16日、佐々木基一宅で「近代文学」「三田文学」合同の告別式が行われる。 『ガリバー旅行記』(主婦の友社)、『原民喜詩集』(細川書店)刊行される。 広島城跡に詩碑建立。(昭和42年に原爆ドーム東側に再建) 「うぐいす」(童話)「碑銘」「悲歌」「ガリヴァ旅行記」「心願の国」 「永遠のみどり」「誕生日」(童話)「もぐらとコスモス」(童話)「屋根の上」 |