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当館所蔵「原民喜資料」について

1.書簡類

 民喜資料1,445点のうち900点近くを書簡類が占めており、民喜が送った手紙も20点余り含まれていますが、多くは友人知人から送られたものです。150通を超す書簡が残る詩人 長光太をはじめ、民喜の作家活動や交友関係を示す差出人の顔ぶれは多彩です。

(1)資料番号11 封書 原民喜から永井善次郎あて 昭和20年8月23日記
  
 当館が所蔵する原民喜が書いた書簡のうち、最も8月6日に近いのがこの手紙です。被爆から半月ほど後に書かれた手紙には、被爆時の体験や目にした光景などは何も書かれておらず、一家で避難した八幡村(現 広島市佐伯区)へ来て読んだ夏目漱石の「彼岸過迄」の感想、9割以上の蔵書や執筆のための紙が焼けてしまったこと、食糧に窮した生活について伝えています。「ゴオルキイの幼年時代」や「阿部次郎の三太郎の日記」が読みかけのまま灰になってしまった、とあり、「夏の花」での原爆投下直後の一文「昨夜までよみかかりの本が頁をまくれて落ちている。」を思い起こさせます。

(2)資料番号13 封書 原民喜から永井善次郎あて (昭和20年)10月12日記
   
資料番号13 封書
資料番号13 封書
原民喜から永井善次郎あて
この便せん4枚の手紙では、8月6日の被爆体験を綴っています。「僕は何も知らないでパンツ一つで便所に居ましたが急に頭上に一撃を加へられそれと同時に目の前は暗闇と化しましたが…」など、その記述は「原爆被災時のノート」とよばれる民喜の手帳や、「夏の花」に書かれた描写とも重なるものです。文中で民喜は、自身を「恐怖する暇もなく」「落着いて行動できた」と語り、「8月6日の事は今になって考へてみると更に奇怪な感にうたれ勝ちです。」と書き始めた被爆体験では、「広島の焼跡を通過しましたが全く奇怪な光景でした」、「戦慄よりもさきに奇怪さにうたれるばかりでした」と、繰り返し「奇怪」という言葉で表現している点に注目されます。また、文末には「僕もなるべく早く都会の近くに栖みたいしこれからは大いに書きたいと思ひます」と創作活動再開への意欲が述べられています。

(3)資料番号19 封書 原民喜から永井善次郎あて (昭和21年)2月15日記
   
 「夏の花」(原題「原子爆弾」)の原稿は、昭和20年12月に雑誌「近代文学」への掲載を期して永井善次郎(佐々木基一)に宛てて郵送されましたが、GHQによる検閲を懸念して、一部削除された後「三田文学」昭和22年6月号で発表されました。    
  この手紙では、「近代文学」での発表と、「原子爆弾」という題名が、検閲上難しいことに対する民喜の判断が示されています。題名について「ある記録」くらいの題ではどうかと代案を述べており、この時点で作品の題名はまだ「夏の花」ではありませんでした。なお、上述(2)の手紙で上京の意向を述べ、ここでは末田信夫(長光太の本名)の下宿へ移る計画が進んでいることが分かります。
 原民喜は上京後、一時長光太宅へ寄寓しますが、その後転居を繰り返し、1948年にようやく丸岡明氏の能楽書林に下宿します。

*当館が所蔵する民喜から佐々木基一氏(永井善次郎)あての書簡類の多くは、 『定本原民喜全集 第3巻』(青土社 昭和53年)でもお読みいただけます。

(4)資料番号686 封書 遠藤周作から原民喜あて 昭和24年11月8日記
   
資料番号686 封書
資料番号686 封書 
遠藤周作から原民喜あて
当館では、「突然お便りを差し上げまして…」と始まる昭和23年1月からフランス留学直前の昭和25年5月まで、遠藤からの6通の書簡を所蔵しています。寡黙で極度な人見知りの民喜と饒舌で社交的な遠藤、対照的な性格の二人ですが、遠藤がたびたび民喜の部屋を訪れたり、連れだって出かけるなど17歳4ヶ月歳の離れた先輩後輩として深い親交が続きました。この手紙では、詳しい事情は不明ですが、遠藤が民喜に心配かけたことを詫びています。「ぼくが、原さんのことをどんなにぼくの人生と文学にとつて大事な人であるかと考へてゐるか…」「ぼくが、原さんの文学と人生によって、どんなに慰められたか…」と、かけがえのない存在として民喜への深い信頼を記しています。





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