三重吉略年譜
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太字は主な出来事
- 明治15年(1882年)
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- 9月29日 父悦二、母ふさの三男として広島市猿楽町(現 中区紙屋町)に生まれる。
- 明治22年(1889年) 7歳
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4月成達尋常小学校(卒業時は本川尋常小学校、現 広島市立本川小学校)に入学。
- 大日本帝国憲法発布
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- 明治24年(1891年) 9歳
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9月母ふさが亡くなる。
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- 明治26年(1893年) 11歳
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4月第一高等小学校に入学。
- 明治27年(1894年)日清戦争
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- 明治29年(1896年) 14歳
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4月広島県広島尋常中学校(卒業時は広島県第一中学校、現 広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。
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- 明治30年(1897年) 15歳
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- 「天長節の記」が「少国民」1月号に、「亡母を慕ふ」が「少年倶楽部」4月号に掲載される。
- 明治34年(1901年) 19歳
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9月京都の第三高等学校に入学。
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- 明治37年(1904年) 22歳
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9月東京帝国大学英文科に入学、夏目漱石の講義を受ける。
- 日露戦争
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- 明治38年(1905年) 23歳
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- 静養のため休学、佐伯郡能美島(現 江田島市)で過ごす。この間に「千鳥」の題材を得る。
- 日露講和条約調印
- 明治39年(1906年) 24歳
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3月「千鳥」を完成させ、漱石に原稿を送る。「千鳥」の原稿は、「僕名作を得たり」と感激した漱石の紹介により高浜虚子に送られ「ホトトギス」5月号に掲載された。
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4~7月広島市内の私立中学の講師となる。親友の加計正文を訪ねて加計町(現 安芸太田町)で夏を過ごし、この間に「山彦」の題材を得る。
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9月上京して漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」に参加する。高浜虚子、森田草平、寺田寅彦、小宮豊隆らと親しくなる。
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- 明治40年(1907年) 25歳
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1月「山彦」が「ホトトギス」に掲載される。
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4月『千代紙』を俳書堂より出版。
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- 明治41年(1908年) 26歳
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7月大学卒業。父悦二が亡くなる。
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10月千葉県成田中学校の教頭として赴任、英語を担当する。
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- 明治43年(1910年) 28歳
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3月~
10月「国民新聞」へ長編小説「小鳥の巣」を連載。
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- 明治44年(1911年) 29歳
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- 成田中学校を退職後上京し、海城中学の講師となる。
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5月ふぢと結婚。
- 辛亥革命
- 明治45年 大正元年(1912年) 30歳
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- 活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や『返らぬ日』『お三津さん』『小鳥の巣』など出版が相次ぐ。
- 中華民国
- 大正2年(1913年) 31歳
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4月中央大学の講師となる。
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7月~
10月「国民新聞」に「桑の実」を連載。 - 大正3年(1914) 第一次世界大戦
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- 大正4年(1915年) 33歳
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3月『三重吉全作集』(全13巻)の刊行を始める。
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4月「中央公論」へ「八の馬鹿」を発表、以後小説の執筆をやめる。
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- 大正5年(1916年) 34歳
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6月河上らくとの間に長女すずが生まれる。
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7月妻ふぢ亡くなる。
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12月童話集『湖水の女』を刊行。
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- 大正6年(1917年) 35歳
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4月『世界童話集』(全21巻)の刊行を始める。清水良雄が装丁、挿絵を担当し、「赤い鳥」へ続く親交が始まる。
- ロシア革命
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- 大正7年(1918年) 36歳
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1月長男珊吉が生まれる。
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7月「赤い鳥」を創刊する。
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9月海城中学を辞職、中央大学を休職する。
- 米騒動
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- 大正10年(1921年) 39歳
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10月小泉濱と結婚する。
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- 大正12年(1923年) 41歳
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9月関東大震災起こる。三重吉宅は人命建物ともに無事であった。
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- 大正13年(1924年) 42歳
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4月父の法事のため、二人の子どもを連れて広島に帰省。
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- 昭和3年(1928年) 46歳
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5月乗馬による少年の精神教育を主旨とした騎道少年団を設立する。
- 初の普通選挙
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- 昭和4年(1929年) 47歳
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3月「赤い鳥」を休刊する。
- 世界大恐慌
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- 昭和5年(1930年) 48歳
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5月「赤い鳥」の復刊準備にかかる。
- 綴方について全国各地へ講演に出る。
- ロンドン軍縮会議
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『鈴木三重吉童話集 別巻』(文泉堂書店 1975年刊)などを参考に作成。