明治38年 | (1903) | 8月29日 広島県安佐郡戸山村大字阿戸に生まれる。 | |
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大正8年 | (1919) | 16歳 | 広島県師範学校に入学。 |
大正9年 | (1920) | 17歳 | 交友雑誌『自進』に「魚の鼻」を掲載。 |
大正10年 | (1921) | 18歳 | 『自進』に「スカドラと円い泉」を掲載。 |
大正11年 | (1922) | 19歳 | 『自進』に「現実に即して」「オミさん」「学者の死」を掲載。 |
大正12年 | (1923) | 20歳 | 広島県広島師範学校を卒業。安佐郡小河内尋常高等小学校訓導となる。 |
大正14年 | (1925) | 22歳 | 広島市大手町尋常高等小学校に転任。(3年生の受け持ちに峠三吉が) |
大正15年 | (1926) | 23歳 | 広島県立忠海高等女学校教師となる。 同僚女教師 野村マサコを知る。 |
昭和 2年 | (1927) | 24歳 | 神戸市神戸区神戸尋常高等小学校訓導となる。 マサコと同棲。 |
昭和3年 | (1928) | 25歳 | マサコ、長男隆三を生む。 奈良市に志賀直哉を訪ねる。 マサコと結婚する。 |
昭和4年 | (1929) | 26歳 | マサコ病死。 駒四郎のペンネームで作家を志す。 |
昭和6年 | (1931) | 28歳 | 『今日の文学』に「婆心」「絵桑」などを、庭与吉のペンネームで。 |
昭和7年 | (1932) | 29歳 | 田中マス子と結婚。 「志賀直哉氏訪問記」を『気流』に。 |
昭和8年 | (1933) | 30歳 | 長女みわ生まれる。 |
昭和9年 | (1934) | 31歳 | 短編集『ひそやかな飼育』300部を自家出版。 |
昭和10年 | (1935) | 32歳 | 次女仙生まれる。 |
昭和12年 | (1937) | 34歳 | 『文芸首都』が同人制で新発足。これに加入する。 |
昭和16年 | (1941) | 38歳 | 随筆「断蓬」を『文芸首都』11月号に、若杉慧のペンネームで。以後これを用いる。 |
昭和17年 | (1942) | 39歳 | 「微塵世界」を『文芸首都』1月号に。また、モダン日本社より単行本化。(「微塵世界」が芥川賞候補となる。) |
昭和18年 | (1943) | 40歳 | 神戸成徳高等女学校勤務。 「淡墨」を『文学界』9月号に。(「淡墨」は芥川賞候補となる。) |
昭和19年 | (1944) | 41歳 | 「青色青光」戦盲兵三部作第一部を『文学界』3月号に。 国立広島商船学校に勤務。 |
昭和21年 | (1946) | 43歳 | 次男五馬生まれる。 「愛吟抄」を『新文学』1月号に。 「黄色黄光」を『新小説』2月号、「赤色赤光」を『別冊文芸春秋』第2号に。 『朝日評論』の11月号に「エデンの海」を掲載。 翌年2月、3月号にも連載。 |
昭和22年 | (1947) | 44歳 | 『エデンの海』を文化書院から刊行。(以後25年に雲井書店、26年に角川書店から刊行)。 原爆記念文芸講演会(広島)で講演。 |
昭和23年 | (1948) | 45歳 | 広島商船学校を退職し埼玉に転居。 以後は文筆活動に専念する。 慧と長女は埼玉県に、その他の家族は神戸に住む。 |
昭和24年 | (1949) | 46歳 | 「男へび」を神戸新聞月刊誌『カルチュア』10月号より6回連載。 島尾敏雄との交遊はじまる。 |
昭和25年 | (1950) | 47歳 | 『いま来たこの道』を朝日新聞社より刊行。 『エデンの海』が松竹より映画化。(主演 鶴田浩二/藤田泰子・ロケは忠海にて) |
昭和26年 | (1951) | 48歳 | 「夜ひらく谷」を『講談倶楽部』1月号より12回連載。 『乳房あるアマゾン』を四季社より刊行。 東京都練馬区に家を求め、分散していた家族が集まる。 |
昭和27年 | (1952) | 49歳 | 「若杉慧論」森川欣一著が『文芸首都』に。 『文芸首都』を脱退する。 |
昭和28年 | (1953) | 50歳 | 「青春前期」を『講談倶楽部』6月号より13回連載。 路傍、墓地の石仏に関心を持ち、撮影をはじめる。 |
昭和29年 | (1954) | 51歳 | 「愛の静脈」を『婦人倶楽部』1月号より12回連載。 『禁断』『青春前期』が講談社より刊行。 『青春前期』が松竹より映画化。(主演 田浦正巳 野添ひとみ) |
昭和31年 | (1956) | 53歳 | 「野の仏」を『日暦』36号から44号まで連載し、30点を掲げる。「野の仏」の写真展(銀座松屋フォートギャラリーにて)。80余点を展示。 |
昭和32年 | (1957) | 54歳 | 「野の仏」の写真展(富士フォートギャラリー/大阪にて)。 国画会に「野の仏」3点を出品し、富士賞を受賞する。 『花をつくる少年』を角川書店より刊行。 |
昭和33年 | (1958) | 55歳 | 国画会写真部会友に推挙され、以後、1年を除き47年まで毎年出品。 『野の仏』を東京創元社より刊行。 「随想〈光陰〉1、2、3」を『日暦』43号から45号に連載。 |
昭和34年 | (1959) | 56歳 | 『仏の微笑、人間の微笑』を光書房より刊行。 「〈光陰〉4」を『日暦』46号に。 |
昭和35年 | (1960) | 57歳 | 紀行と写真『朝旅夕旅』を東都書房より刊行。 『石仏巡礼』を社会思想研究会出版部より刊行。 信州蓼科に家屋を建築し、以後夏期はここに生活すること多し。 |
昭和36年 | (1961) | 58歳 | 『掌ほどの幸福』を角川書店より刊行。 |
昭和38年 | (1963) | 60歳 | 『新版 野の仏』を東京創元新社より刊行。 『北條石仏』を筑摩書房より刊行。 『エデンの海』が日活より映画化。(主演 高橋英樹/和泉雅子) |
昭和39年 | (1964) | 61歳 | 『ダムと石仏』を毎日新聞社より刊行。 「野ざらしの歴史」を『俳句』に24回、2年にわたり連載。 |
昭和40年 | (1965) | 62歳 | 「胞友 伊藤左千夫と長塚節」を『日暦』57号に。 |
昭和41年 | (1966) | 63歳 | 『野ざらしの歴史』を佼成出版社から刊行。 |
昭和42年 | (1967) | 64歳 | 『石仏のこころ』を鹿島研究所出版会から刊行。 |
昭和43年 | (1968) | 65歳 | 『石仏讃歌』を社会思想社より刊行。 後期、女子美術大学造形学科で写真美術論を講ずる。 |
昭和45年 | (1970) | 67歳 | 『日本の石塔』を木耳社より刊行。 「長塚節の童貞実否」を『日暦』64号に。 |
昭和46年 | (1971) | 68歳 | この頃より高血圧の傾向が現れ、断続的な変形性腰痛に悩む。 「旅ノート」によれば昭和27年から本年末までの19年間に、105回の国内宿泊旅行をしている。 |
昭和47年 | (1972) | 69歳 | 島亨に編集を依頼し、『半眼抄』を木耳社より刊行。 「長塚節の前半生」を『日暦』66号に、「絶交状」を『日暦』67号に。 |
昭和48年 | (1973) | 70歳 | 『道しるべのない旅』をじゃこめてい出版より、『石仏の運命』を木耳社より刊行。 |
昭和49年 | (1974) | 71歳 | 『文学・石仏・人性(若杉慧論)』が島尾敏雄、吉本隆明、島亨、佐藤宗太郎、高田欣一の共著で記録社より刊行。 長塚節の評伝「おつぎ讃」「胞友」を『茫』6号に。 |
昭和50年 | (1975) | 72歳 | 「長塚節素描」により第三回平林たい子文学賞評論の部を受賞。 同年講談社より単行本化。 |
昭和51年 | (1976) | 73歳 | 『一一集』(非売品)を1000部印刷。 『エデンの海』東宝より映画化。(主演 南条豊/山口百恵) |
昭和52年 | (1977) | 74歳 | 「ふるさとは遠きにありて」を中国新聞に連載。 『広島の伝説』を村岡浅夫と共著で角川書店より刊行。 『石仏百景』を光風社書店より刊行。 『野に生きる』を光風社書店より刊行。 |
昭和54年 | (1979) | 76歳 | 『若杉慧と郷土』を広島市沼田公民館が刊行。 |
昭和55年 | (1980) | 77歳 | 郷里、沼田町阿戸の浄宗寺に若杉慧の文学碑、仏塔「野仏之塔」が建立される。 |
昭和58年 | (1983) | 80歳 | 妻、マス子を喪う。 |
昭和62年 | (1987) | 8月24日、84歳で死去。 |
(没後) | |||
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平成9年 | (1997) | 広島県竹原市忠海町に記念碑「エデンの海」が建てられる。 松原勉による「若杉慧覚書 T」が『広島女学院大学国語国文学誌』27号に発表される。(若杉慧の年譜稿を掲載) |
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平成10年 | (1998) | 松原勉による「若杉慧覚書 U」が『広島女学院大学日本文学』8号に。(「野仏之塔」建立に関わる事柄について掲載。) | |
平成12年 | (2000) | 松原勉による「若杉慧覚書 V」が『広島女学院大学国語国文学誌』30号に。 |
若杉慧は今の安佐南区沼田町に生まれた。広島県広島師範学校を卒業後、県内の安佐郡小河内尋常高等小学校、大手町尋常高等小学校、広島県立忠海高等女学校教師を経て、神戸、東京へと居を移したが、終生ふるさとである広島を大切に思い、親族や友人、知人と深い交流を結んでいる。また、その間、昭和19年から23年まで広島県に帰り、広島商船学校に勤務しており、その時期に忠海あたりを舞台にしたとされる「エデンの海」を書いた。
『広島の伝説』は広島の民俗史家であり、またいとこでもある村岡浅夫との共著で、若杉は後半部分に「広島十選」を書いている。
小冊子『若杉慧と郷土』は沼田公民館が発行したもの。小学校時代の恩師のこと、大田洋子、峠三吉のことなどを回想し、自身が原稿を草したものである。若杉が出身校の戸山中学校へ『日本の石塔』を寄贈したことに対する生徒からの礼状への返事「戸山中学校生徒のみなさんへ」も掲載され、そのあたたかい交流がうかがえる内容となっている。
中国新聞には何度も寄稿し、石仏のこと、ふるさとへの望郷の思いなど記している。昭和52年には4月3日〜4月13日まで、「緑地帯」へ「ふるさとは遠くにありて」全8回を連載し、大田洋子、原民喜、峠三吉、がんす横丁、エデンの海などについて回想した。
また、昭和55年、若杉の出身地である沼田町阿戸の浄宗寺に、彼の功績をたたえ、同級生や地域の人々により仏塔「野仏之塔」が建立された。碑文には「仏も涅槃に入る時あり、石にも年輪がある」と書かれている。当初、作家としての功績を残す記念碑が計画されていたが、本人の固辞により仏塔となった。
著作のなかでは珍しい傾向のもの。広島在住の民俗学者 村岡浅夫との共著で、若杉は後半部分に「広島伝説十選」を書いている。その十話は、お互い老境に達した教師と女生徒たちが、座談会風に昔話を競い合う話であったり、小さい頃布団の中でおばばン(祖母)に語ってもらった話であったり、昔話をもとにした軽妙な短編集。
『広島の伝説』(昭和52年)に収録された若杉作品の原稿。
このほか、所蔵資料には広島の伝説関係の草稿が数点ある。
(資料No.11470草稿「醜女の美しさ」)
昭和52年、中国新聞「緑地帯」での「ふるさとは遠くにありて」と題する連載のなかで、大手町尋常高等小学校での受持ちであったことや、後に、峠宅で作品の合評会をし、文学の世界での交友についても書かれている。
同じ広島出身の文学者ではあったが、「原民喜と会ったのは一度だけで、民喜と彼の義弟佐々木基一と3人で湯豆腐を囲み一晩飲んだだけの因縁である。」とし、民喜の詩 花の幻は好きな詩なので、それについて何か言おうとしても、言えないほど無口だった、と民喜に対する印象を書き残している。著書『野の仏』中の「原爆子育地蔵尊」の解説にも、民喜の碑銘「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ堕つ 天地のまなか 一輪の花の幻」を引用している。
東京練馬での住まいが歩いて5分位の近さということもあり、大田洋子とは親しい交遊があり、家族ぐるみの付き合いや、文学についてしばしば論争もしている。自筆原稿「洋子と私」では、大田洋子の『屍の街』に対して、体験手記であるからこそと、率直に評価している。
昭和29年に若杉慧が郷里を訪れた際、広島市内などを回り、その風景を収めた写真がアルバムに多く残されている。復興が進む市街地には新しい建造物とともに、いまだ被爆の傷跡が残る時代に、街を歩く若杉の意識が何に反応し、何にレンズを向けたのか、興味深い資料である。
「エデンの海」の舞台である忠海に作られたパーキングエリア。敷地内に設置された展望台からは、瀬戸内海の島々を見渡すことができる。
右の写真上部に見えるのは、若杉慧が教壇に立った広島県立忠海高等女学校を前身とする広島県立忠海高等学校。
旧戸山郵便局舎を改装して平成14年に開館。戸山民俗資料保存会により、戸山の民具、農具などの民俗資料のほか、若杉慧の著書をはじめとした関係資料も収蔵、展示している。
(開館日:水曜日、第2、4土曜日、開館時間:13:50〜15:30)