鈴木三重吉 自筆の書 「珊吉 鈴子 浜子 三重吉」
昭和8年 筆 巻紙に墨書き(1行)
18×110cm 1枚
※順に、息子、娘、妻、自身の名を連ねた書。
鈴木三重吉 自筆の書 「三重吉永眠の地」
昭和8年 筆 巻紙に墨書き 20×90cm (1行) 1枚
※菩提寺、長遠寺境内にある自身の墓碑の碑文。
鈴木三重吉 自筆メモ 「私は永久に年少時の夢を持つ…」
昭和2年 筆 紙片に墨書 4行 9×21cm 1枚
※赤い鳥顕彰碑(原爆ドーム横)の碑文に近い内容。
雑誌『赤い鳥』の集合写真 第1-巻1、2、3、5号、第2巻1号~5号 計9冊
鈴木三重吉が主宰した児童雑誌『赤い鳥』(1918年創刊)。表紙画は清水良雄。
写真 ~鈴木三重吉記念碑『夢にのる』~(ハノーバー庭園 こども図書館そば)
彫刻は、円鍔勝三作。
※裏面に、「鈴木三重吉先生は、1882年広島市猿楽町に生まれました。雑誌赤い鳥を出して日本のこどもに夢と希望を与えることに一生をささげました」と刻まれている。
写真 ~鈴木三重吉 赤い鳥顕彰碑(平和記念公園 原爆ドームそば)~ 円鍔勝三作。
写真 ~鈴木三重吉 赤い鳥顕彰碑の碑文
「私は永久に夢を持つ ただ年少時のごとく ために悩むこと浅きのみ 三重吉」
写真パネル 『鈴木三重吉「千鳥」文学碑』(江田島市 能美島) パネル 1枚
東京大学英文科に在学中の三重吉は、24歳の夏、療養のため能美島に滞在し、ここの風物に触れて処女作となる小説「千鳥」の構想を得た。完成した「千鳥」は、夏目漱石に絶賛され、ホトトギスに発表された。
「親のそばでは泣くにも泣けぬ、沖の小島へ行って泣く」と碑に刻まれている。
写真 『「山彦」文学碑』(北広島町 加計・吉水園入口)
「山彦」は、「千鳥」の翌年に書かれた第二作。同郷の友人である加計正文の招きでここ吉水園に滞在し、その際に構想を得て「山彦」が書かれた。
※ 碑には「城下見に行こ十三里、炭積んでゆこ十三里、と小唄に謡ふといふ十三里を、城下の泊まりから、とぼとぼと、三里は雨に濡れて来た。」と、小説「山彦」の冒頭が自筆の文字で刻まれている。十三里は加計から広島城下までの距離。