カテゴリー:中央図書館
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記事分類:イベント公開日:2022年4月19日
中央図書館の特別コレクション「浅野文庫」の所蔵資料「島々真景之図(しまじましんけいのず)」を紹介します。
令和4年3月8日(火)~5月1日(日)
中央図書館 2階 サテライト(北側)
「島々真景之図」は縦28cm、横19cmの本で、宮島周辺の広島湾の様子が20景描かれています。
題簽(だいせん、本の表紙に題名等を記して貼る細長い紙片)に「嶋々真景之図 全」とありますが、本文には絵と画題のみが書かれており、誰が何のために作成したのか明らかではありません。
描かれた風景には、広島藩の御座船(ござぶね、藩主の乗る船)や漁業を営む人々の様子等もあり、江戸時代の広島湾の様子を知ることができる貴重な資料です。
「島々真景之図」」はデジタルアーカイブ「広島市立図書館貴重資料アーカイブ」で画像を公開しています。デジタルアーカイブで見ることで、拡大して細かな書き込みをじっくり観察することができます。
また、携帯端末からアクセスすれば現地で現在の様子と比較することも可能です。是非この機会にアクセスしてみてください。
なお、展示内容で紹介する画像のうち、「画像名(画像番号)」の形式で記載しているものは「島々真景之図」の画像です。
(1)江戸時代の瀬戸内海
「瀬戸内海は日本唯一の内海で、広さは東西約450km、南北約15~55kmと東西に長く、大小700余の島が散在している。
瀬戸内海北岸に位置する広島藩には、東は尾道から西は大竹に至る長大な海岸線と、因島・倉橋島・江田島・宮島などの島々があった。人々は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、地の利を生かした海運業・漁業・製塩業などを営んだ。
瀬戸内(せとうち)海運の発展は、寛文12年(1672年)に河村瑞賢(かわむらずいけん)が西廻り(にしまわり)航路を整備したことによる。西廻り航路により、北国から日本海岸を西進してきた船が関門(かんもん)海峡を経て瀬戸内海に入り、直接大坂に入港するようになった。そのため、瀬戸内海は全国的な物資の流通ルートとなり、廻船(かいせん)業が活発化し各地に港町が発展した。
また、江戸時代になると航海技術が向上し、航海ルートにも変化が起きた。古代から中世までは、山などの地形を目標に沿岸部を航行する「地乗り(じのり)」が主流であったが、次第に沿岸が見えない沖合いを航海する「沖乗り」が行われるようになった。
「西国筋海上道法絵図」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
江戸時代前期の瀬戸内海の航路が描かれている。
(2)瀬戸内海の漁業
瀬戸内の漁業は中世以前から活発に行われていたが、江戸幕府成立以降、水主浦(かこうら)制度による漁民の生活の安定と漁業の技術向上により更に発展した。
水主浦制度とは、藩が漁場の海域を区分し、その海域で操業する漁村に対して、公用船の通行にあたっての労務提供を義務づけるかわりに、その海域での独占的な操業を保証する制度である。水主(かこ)は船乗りのことをさす。広島藩の海域は5漁場に区画され、それぞれの立地・資源にふさわしい漁法が考案された。
「島々真景之図」に描かれている島や浦は下浦漁場(佐伯郡)に属しており、この漁場では紀州漁民から伝わった技術を導入したイワシ網漁が有名である。イワシ網漁は、広島藩の重要産業である綿の栽培に必要な干鰯(ほしか)などの魚肥(ぎょひ、魚を原料として作った肥料)の供給に貢献した。
ツクモ浦景(画像番号20)
網漁の様子。網の中に、タコや鯛(たい)と思われる魚が描かれている。
(3)御座船(ござぶね)
慶長14年(1609年)徳川幕府は諸大名の水軍力削減のため、500石積以上の大型船の所有と建造を禁止し、水軍の主力であった安宅船(あたけぶね)を没収した。これにより安宅船は姿を消し、以来、幕末に至るまで諸藩の水軍の基幹勢力は関船(せきぶね)となった。
関船とは戦国時代に急速に発展をとげた軍船のひとつで、快足を第一とし、戦国時代では攻防ともに優れた安宅船に次ぐ有力な軍船であった。
諸大名は500石積の制限内で大・中の関船を所有し、なかでも大型の関船に豪華な装飾を施して藩主の乗る御座船とした。御座船とは貴人の乗る船の総称で、江戸時代には将軍や藩主が乗る船を示した。
各藩の藩用船は遠くからでも識別できるよう、藩ごとに帆・幕・幟(のぼり)の意匠が決められていた。広島藩では、寛永13年(1636年)に藩用船の幟印を定めており、文化元年(1804年)の「文化武鑑(ぶかん)」(武家の名鑑)では幟は白地に紺色の三つ引とされている。また、藩主の乗った船には吹貫(ふきぬき)を立てるものとした。吹貫とは切り裂いた長い布の口を丸く輪にして竿につけたもので、戦国時代末期から軍陣で用いられた。
御座舩圖(画像番号4)
「御座舩圖」で右側に描かれた大型の関船には吹貫が立てられており、藩主の御座船であることが分かる。周りに描かれた船は関船または小早船(こばやぶね、小型の関船)と推測される。
嚴嶋浦景(画像番号21)
仁之嶋景(画像番号22)
「厳島浦景」、「仁之嶋景」で描かれた船には櫓(ろ、船を操る太い棒)と船体上部の矢倉(やぐら、戦闘用の構築物・展望台)が描かれておらず、関船形式であるとは判別し難い。両図とも、左下に描かれた大型の船には吹貫が立てられており、藩主の御座船であることが分かる。
「御領分郡村絵図」(広島市立中央図書館蔵)一部改変 [PDF:242KB]
「島々真景之図」に描かれた場所のおおよその位置に、画像番号を記載した。
描かれた場所が広島から大竹までの広島湾沿岸で、特に厳島周辺を多く取り上げていることが分かる。
「御領分郡村絵図」(広島市立図書館貴重資料アーカイブ)
(1)江波嶋景(江波:広島市中区)
江波嶋景(画像番号3)
江波は元々太田川河口の沖合いに浮かぶ島で、江戸期以降、島の南北に新田開発が進み、明治2年(1869年)に広島と陸続きになった。島の周囲では漁業が盛んで、特産は海老・海苔・赤貝・はまぐり等であった。
元和5年(1619年)に福島氏に替わり入国した浅野氏は、すぐに江波島に番所を設け、江波奉行(のち江波御番)を置いて海路・川筋取締りに当たらせた。城下町広島は主要航路から外れてはいたが、広島藩の経済の中枢を占め、商港として繁栄していた。江波島は広島の外港として利用され、江波と広島の間には荷舟として艜船(ひらたぶね、吃水(きっすい、船体の最下部から水面までの垂直距離)の浅い細長い船)が活躍した。
(2)ツク子嶋景(津久禰(つくね)島:現 広島市佐伯区)
ツク子嶋景(画像番号5)
津久禰島は、五日市の東南海上約4kmにある、周囲300m余の無人島。全島花崗岩(かこうがん)におおわれ、一面に松を茂らせている。広島湾のほぼ中央に孤立し、古来航海の目標とされた。『厳島道芝記(いつくしまみちしばのき)』(元禄15年(1702年)刊。厳島に関する詳細な通俗案内記)に「厳島と広島の中途にて目にたちて見ゆる島なり・・・」とある。
(3)地之御前浦景(地御前:現 廿日市市)
地之御前浦景(画像番号6)
中央左手に地御前(じごぜん)神社の鳥居が見える。地御前神社は厳島神社対岸の海浜にあり、厳島神社の外宮(げぐう)で摂社(せっしゃ)。
少なくとも江戸時代までは地御前神社の目の前までが海で、海中に鳥居がたち、拝殿のすぐそばまで船で入ることができた。
地御前神社近くの海浜に沿って地御前村があり、村の生業は4割が農業、6割が漁業で、漁業は鰯網・海老網が行われた。
※ 外宮:一つの神社にいくつかの神社が含まれているとき、最も低い場所にある社。
※ 摂社:神社の格式のひとつ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。
(4)厳島(いつくしま)(現 廿日市市)
嚴嶋景(画像番号7)
御本社景(画像番号9)
広島湾の西南にあり、周囲約30km。対岸の大野とは幅約0.5kmの大野瀬戸を隔てている。
古来、島そのものが神として信仰され、人の居住は許されなかったが、室町頃から門前町が形成され、厳島神社の周辺西と東を中心に発達した。江戸期になると広島藩の奉行所が設けられ、信仰の地としてだけではなく交易地としても栄えた。
「御本社景(画像番号9)」には厳島神社、千畳閣、五重塔が描かれている。
網之浦景(画像番号8)
有之浦景(画像番号10)
網之浦(あみのうら)は厳島神社の東方、有之浦(ありのうら)は厳島神社の西方にあたる。
蓬莱嶋景(画像番号11)
厳島の北端にある聖崎(ひじりさき)と蓬莱(ほうらい)岩を描いたものか。蓬莱とは、海中にある神仙の住む山のことで、この辺りは春先に蜃気楼が見られるため、蓬莱の名がついたとされる。
(5)大野浦景(大野:現 廿日市市)
大野浦景(画像番号12)
沿岸部を通る山陽道沿いに集落が展開する。水に恵まれ、村の生業は6割5分が農業、2割が山稼ぎ、1割5分が漁業に従事していた。
厳島と大野との間にある海峡を大野の瀬戸という。水深は10m程度で、満潮時には潮流は広島方面に進み、引き潮の時にはその逆となる。
(6)玖波(くば)山景、玖波浦景(玖波:現 大竹市)
玖波山景(画像番号13)
玖波浦景(画像番号14)
地名は木場に由来し、かつて薪・材木の積出地であったことによるといわれる。沿岸部を山陽道が通り、宿駅として賑わった。玖波村では農業よりも奥筋から積み出される山荷物・板材木などの問屋商や、雑穀・干鰯(ほしか)・塩などの交易、漁業、山稼ぎ、通行人馬の荷物持ちなどが行われた。
(7)小方(おがた)浦景(小方:現 大竹市)
小方浦景(画像番号15)
西北には山が連なり、西は木野川を隔てて周防国(現:山口県岩国市)に相対した。沿岸部の平地を通る山陽道沿いに町屋が展開し、浅野氏時代には家老上田氏の屋敷があった。
古くから厳島や海田に向かう渡船が出る海上交通の要衝で、江戸時代には諸国の廻船(かいせん、貨物を輸送する海船)が集まり賑わった。
(8)カベ嶋景(可部島:現 大竹市)
カベ嶋景(画像番号16)
左側中央部に描かれた島が可部島か。可部島は大竹港の東約3.9km、厳島革籠(こうご)崎西約0.8kmにある無人島。面積約0.03㎢、標高43.6m。
(9)木野山景(木野:現 大竹市)
木野山景(画像番号17)
木野(この)地区から苦の坂(くのさか)方面を描いたものか。左側下に描かれているのは木野川(小瀬(おぜ)川)と思われる。
苦の坂は西国街道の広島以西における五大難路のひとつである。
(10)小瀬川景
小瀬川景(画像番号18)
小瀬(おぜ)川は広島県の最西端にあり、山口県との県境を流れる。広島県では木野川(このがわ)、山口県では小瀬川というが、画題は「小瀬川」。
洪水の度ごとに河道が移動したため、安芸・周防両国の境界をめぐって慶長16年(1611年)以来20回余に及ぶ争論が勃発したが、享和元年(1801年)に和談が成立した。
左側中央に描かれた川が小瀬川(木野川)と思われる。川を渡る船は木野川の渡し場を描いたものか。
(11)大黒上山景(大黒神(おおくろかみ)島:現 江田島市沖美町)
大黒上山景(画像番号19)
大黒神島は、能美(のうみ)島(江田島市)の西方海上にあり、標高約440m、周囲約12Km。近くにある小黒神(こくろかみ)島とともに良質の石材を産出する。
(12)ツクモ浦景(津久茂:現 江田島市)
ツクモ浦景(画像番号20)
津久茂は広島湾上の江田島北西部にあり、江田島湾を閉じるように突出した半島に位置する。標高263mの急峻な山で覆われ、傾斜の緩やかな東南麓一帯に集落が営まれた。島のはずれにあり、交通は古くから海上が中心であった。
(13)仁之嶋景(似島(にのしま):現 広島市南区)
仁之嶋景(画像番号22)
似島は広島港の南約3km、広島湾に浮かぶ島。周囲約10kmで、北部に標高278.1mの安芸小富士がある。文化~文政年間(1804年~1830年)には50戸の民家があり、鰯網漁で活気を呈していた。
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