浅野氏入城400年記念事業 平成30年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」前期第3回「江戸時代の医学史と広島―漢方医・吉益東洞を中心に―」を平成30年7月21日(土)に開催しました。
その概要を簡単にご紹介します。
第3回「江戸時代の医学史と広島―漢方医・吉益東洞を中心に―」
講師:科学史家、兵庫大学エクステンション・カレッジ 講師 川和田 晶子さん
概要
江戸時代に活躍した広島出身の漢方医 吉益 東洞(よします とうどう)を中心に、彼を顕彰した広島出身の医学史家 富士川 游(ふじかわ ゆう)・科学哲学思想家 三枝 博音(さいぐさ ひろと)について紹介され、吉益東洞の著作『医事或問』(いじわくもん)についてお話をされました。
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吉益 東洞(元禄15年(1702年)~安永2年(1773年))について
安芸国山口町(現在の広島市中区橋本町付近)出身の漢方医。古医方(こいほう)(漢の張仲景の医学理論に帰ることを唱えた漢方の流派。経験・実証に即することを重視した。)を学んだ。
彼の学問は「親試実験(しんしじっけん)」を旨とする徹底的な実証主義で、合理的でないものを排除したものであった。
享保16年(1731年)30歳の時、「薬というものはすべて毒だから、毒をもって毒を制する、そうすれば毒が排出されて体調が良くなる」とする「万病一毒説」(まんびょういちどくせつ)を提唱し、病気を攻撃する効果が強い生薬を使って病気を治癒することを目指した。
東洞の出現以前の日本の漢方医学界は、曲直瀬 道三 (まなせ どうさん)が提唱した、「気を補って体力をつける」「水を補って熱を冷ます」という考えに基づき、人間の身体に薬を「補う」ことで体調を良くするという説が主流だったため、万病一毒説は当時の漢方医学界を驚愕させた。
後世、明治から昭和戦前期に活躍した医史学者で広島出身の富士川游は、東洞のこの考えを近代的で西洋医学に通じるものと高く評価している。
元文3年(1739年)37歳の時、家族とともに京都に移住し漢方医として開業したが、彼の攻撃的な思想はすぐには受け入れられず、京都での生活は困窮した。延享4年(1747年)46歳の時、日本で最初に人体を解剖して医学的に検分した山脇 東洋(やまわき とうよう)と知り合ったことを契機に、彼の引き立てにより出世した。
吉益流の古医方は、息子の吉益 南涯(よします なんがい)(宝暦10年(1760年)~天保6年(1835年))が発展させ、18世紀後半以後、漢方医学界の主流となった。
なお、日本で最初に全身麻酔を用いた手術を成功させた紀州藩医・華岡 青洲(はなおか せいしゅう)は南涯に学んだ弟子の一人である。
- その他江戸時代に活躍した著名な広島の医者たち
(1) 黒川 道祐(くろかわ どうゆう)
江戸初期の儒医・歴史家。広島藩の藩儒として第二代藩主の世子(せいし・跡継ぎ)だった綱晟(つなあきら)に学問を教授し、寛文3年(1663年)に藩命により、『芸備国郡志』を編纂した。医学関係では、日本の医家伝をまとめた『本朝医考』などがある。
(2) 星野 良悦(ほしの りょうえつ)
蘭方医・整骨医。寛政3年(1791年)刑屍2体を解剖し、職人の原田孝次に模刻させ、約300日かけて等身大の木製人体骨格模型「身幹儀(しんかんぎ)(通称:星野木骨)」を日本で最初に制作した。身幹儀は、国指定の重要文化財で、現在は広島大学医学部医学資料館に保存されている。
(3) 土生 玄碩(はぶ げんせき)
眼科医。高田郡吉田町出身。文化7年(1810年)に第11代将軍・徳川家斉の侍医となる。シーボルト事件に連座して獄に入るが、のちに赦されて江戸で眼科を開業した。講談・舞台・映画などで有名な、男同士の友情を描いた不朽の名作「男の花道」で、上方歌舞伎の名役者・第3代中村歌右衛門を失明の危機から救う名医は、玄碩がモデルになっている。
- 吉益東洞を顕彰した広島出身の医学史家 富士川游と、科学哲学思想家 三枝博音
(1) 富士川 游(慶応元年(1865年)~昭和15年(1940年))
沼田郡安村(現在の広島市安佐南区長楽寺)に生まれる。明治20年(1887年)に広島医学校(現在の広島大学医学部)を卒業後、東京に出て医学雑誌の編集者、保険医などとして働く傍ら、医学史に関する膨大な数の文献を収集し、医学史研究に邁進した。明治37年(1904年)に大著『日本医学史』を出版し、その功績が認められて、明治45年(1912年)に帝国学士院(現在の日本学士院)恩賜賞を受賞した。
文学博士と医学博士の2つの称号を得て、大学の教壇に立ったほか、日本内科学会や医科器械研究会、日本医史学会など、多くの学会・協会の設立を行った。
その活動は医学だけに留まらず、その関心の広さから、知己朋友には夏目漱石や森鴎外などの文豪も含まれた。
また、大正15年(1926年)に開館した、広島市立中央図書館の前身・浅野図書館の建設にあたり、顧問として尽力した。
晩年は、医学ジャーナリズム分野と浄土真宗の信仰に関する記述を多数残し、昭和15年(1940年)に75歳で、神奈川県鎌倉市内の自宅で病没した。
(2) 三枝 博音(明治25年(1892年)~昭和38年(1963年))
山県郡本地村(現在の広島県北広島町本地)にある浄土真宗の寺院に生まれる。東京帝国大学文学部でドイツ哲学を学ぶ一方、日本哲学・医学史・仏教学なども学び、独自の視点を持って思想史を追究し、戦後には科学史、技術史の研究にも至った。
1930年代半ばから、富士川游の勧めもあり、日本史を踏まえた、哲学と思想の研究を本格的に開始し、『日本哲学全書』の刊行に着手する。昭和21年(1946年)5月には私立の自由大学「鎌倉アカデミア」の創設に加わり、2代目校長に就任した。その後横浜市立大学の学長などを務め、昭和36年(1961年)、『日本の唯物論者』(英宝社)で毎日出版文化賞を受賞した。
昭和35年(1960年)から、日本科学史学会の第3代会長も務めたが、昭和38年(1963年)11月9日の横須賀線列車事故(鶴見事故)に巻き込まれ、急逝した。
- 吉益東洞の著作『医事或問』(いじわくもん)
昭和31年(1956年)3月、三枝博音が編集した『日本哲学思想全書』(全20巻)が平凡社から出版された。その第7巻「学問編」には、吉益東洞の『医事或問』(上・下巻)が掲載されている。『医事或問』は、明和6年(1769年)までに東洞本人が著述したもので、東洞の死後、寛政12年(1800年)に出版された。また文政8年(1825年)にも再版され、当時の漢方医と医学に心得のある知識人に愛読されていた。
『医事或問』は弟子が師匠に質問し、答える、という問答の形式で記述されており、万病一毒説を踏まえながら、病気の症状、治療方法、経過観察、薬の処方などのほか、古代中国の漢方の歴史、食養生などについても、東洞自身の経験を踏まえて細かく書き残している。
なお、下巻には「先第一に生死は天の司(つかさどり)にして人の司所(つかさどるところ)にあらず。医者は只疾苦を救ふ職分にして」と書かれた一段がある。江戸時代後期に、医者について社会的な立場と職責を明言しているのは当時としては画期的な記述である。
江戸時代に出版された『医事或問』は、変体仮名で書かれているため、変体仮名に馴染みの薄い現代人が、そのまま読むことは困難である。しかし、富士川游に古典医学書の取り扱いを学んだ、三枝博音が現代仮名に直し、昭和戦後期に出版したおかげで、我々はその原著を読み、吉益東洞本人の言葉に触れ、彼の思想を理解することができる。
なお、『日本哲学思想全書 第7巻』(第2版)(三枝 博音/編、平凡社、1980年)は、広島市立中央図書館に所蔵があるので、関心のある方はぜひ手にとって読んでみられることをおすすめしたい、と締めくくられた。
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